私の幼少時代
私は幼いころアパート住まいでした。同32313133353236313431303231363533e4b893e5b19e31333332643235じアパートには、一つ年下の男の子をはじめ、入れ換わりはありましたがいつも同年代の子がいましたので、よく遊んでもらいました。
私は3才くらいから、おもちゃのピアノで正確にメロディを弾いていたそうです。そして、5才のとき、両親が足踏みではなく電気式のオルガンを買ってくれ、6才になったときにはエレクトーンを買って習わせてくれました。うれしかった!私が練習する音を聞きつけて、同じアパートに住んでいる友達以外の子も遊びにくるようになりました。そして、外へもよく一緒に遊びに行きました。
そのころは、車の通行量も少なく、三輪車や自転車に乗っていても平気でした。今となってはとても無謀なことですが。
當時は、役所に聞きに行かなければ福祉製度について知ることはできませんでした。決して両親が無関心だったとは思わないのですが、盲學校に入學するまでは交通運賃の割引製度や身體障害者手帳のこと、白杖の存在も知らなかったようです。
柿薗さんが「視力を全く失っている彼が、廊下を挾んだ2つのボランティアルーム、しかも機やイスが並べられている部屋の往複を、杖もつかずにしかも普通のスピードで歩いている。」と疑問を投げかけて下さっていますが、白杖の使い方だけでなく存在すら知らなかった私には、白杖なしで歩くことが自然に身についたのでしょう。今も、馴れた所は白杖なしで歩きます。知らない所に行くときには鞄の中から白杖を出しますが。
生まれてから盲學校に入學するまでは友達がいなくて、盲學校に入ってからも晴眼者の友達はいない。大人になっても仕事上晴眼者と接することはあっても、お年寄りになったら盲老人ホームに入って・・・・・という方もいらっしゃるようです。晴眼者との接し方が私にとってはアパート住まいが幸いして、自然にできたのかもしれません。もちろん、持っているお菓子を全部取られたり、知らない所に置いてきぼりを食ったなんてこともありましたが、それはそれでとても懐かしい思い出です。私が幼いころはまだ盲學校に幼稚部はありませんでした。いじめられたこともありましたが、それでも友達が幼稚園から帰ってくるのが待ち遠しかったのを覚えています。私だけがいじめのターゲットではなく、他の友達と一緒にいじめるほうに回ったこともありましたし。
今思えば、両親が私のことをあまり幹渉せず、周囲の友達と自由奔放に遊ばせてくれ、同じアパートの住人も、溫かく見守っていて下さったのだと思います。感謝しています
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